新設:2018-12-19
更新:2022-11-13
御船蔵跡碑
撮影:2018-11-23
案内碑 (江東区史跡碑)
御船蔵跡 (みふなくらあと)
はじめ 寛永9年(1632)この付近に 幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し 天和2年(1682)にいたって解体したが のちに ここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので 御船蔵と称し またこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和33年10月1日 江東区第10号
- 所 在
- 江東区新大橋1丁目2番 新大橋東詰南 小公園内
- 碑 文
- 正面に「御船蔵跡」が刻され 左側面から裏面 右側面へと碑文が彫られている
参考Webサイト
本所深川絵図(江東区深川芭蕉記念館サイト) 右上の表示「新大橋」右に「御船蔵」が記されている
本所深川絵図 国立国会図書館デジタルコレクション
<注>
「本所深川絵図」上の[新大橋]は 現在の[新大橋]より200mほど下流に描かれている→次項の「新大橋1丁目安宅丸由来碑」を参照されたい
案内板 (江東区案内板)
新大橋 由来
新大橋は 隅田川に架かる3番目の橋として 元禄6年(1693)に架けられました
この橋の架設により 江戸市中との交通が便利となり 深川の発展に大きく影響しました
初めは 現在地より約200mほど下流に架けられていましたが 明治45年(1912)7月鉄橋となり 現在地に架替えられました
昭和52年(1977) 現在の新大橋に架替えられ 旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋であることから 愛知県の明治村へ移され保存されています
補 足
所在:江東区新大橋1丁目2番先 新大橋東詰南 歩道上に設置
初の新大橋は江東区常盤1丁目6番辺りの江東区芭蕉記念館のやや南にあったらしい
新大橋1丁目と安宅丸
撮影:2018-12-08
案内碑 (新大橋1丁目町会建立)
所在地 江東区新大橋1-5-4 (新大橋東詰北)
新大橋永谷マンション管理組合管理敷地内
新一公園
碑 面
新大橋一丁目安宅丸由来
題字 細田隆善 書
江戸絵図(延宝7年(1679))を彫った銅板はめ込み
碑 陰 (裏面)
新大橋1丁目と安宅丸の由来
新大橋1丁目の町名は 住居表示町名変更により昭和46年4月1日 深川新大橋1丁目を改めたものです 同町は関東大震災後の区画整理により昭和9年6月14日
従来の深川安宅町と深川新安宅町の一部を合併してつけられた町名です
新大橋1丁目一帯は 江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵のあったところです そのため この付近は昔から御船蔵と称されてきました ここには 幕府最大の巨艦安宅丸がおかれていましたので 明治2年7月御船蔵跡一帯の地域を安宅丸の威容をたたえて深川安宅町と称しました また 深川新安宅町は隅田川の川添いの浅瀬を埋めたてて明治38年8月24日 この町名をつけたものです
安宅丸は北条氏が造船したもので その動力は4百人の水夫が2百本のオールを交代で漕ぎ 米4千石(1万俵)と多くの将兵軍馬を乗せることができる木造船として最大の軍船であったといわれています
のちに 安宅丸は豊臣秀吉の手に渡り さらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永10年(1633) 江戸に回航し この御船蔵につながれました
延宝7年(1679) 江戸絵図は安宅丸が画かれています そして 巨艦安宅丸は補修管理が困難となり 天和2年(1682) 解体されました 幕末の頃には船蔵に38隻の艦船が格納されていましたが 明治時代となり 1隻は政府に 他は払いさげになったと記されています
この付近は江戸時代初期から開発され 江東区においてもつとも古い町の1つであります
江東史談会 会長 細田隆善記
新一公園開園を記念してこの町の由来を記す
昭和48年10月吉日
新大橋1丁目町会
町会長 坂田 清
補 足
延宝7年(1679) 江戸絵図の中央やや右上に「御船蔵」が隅田川沿いにあり その左下に「あたけ丸」と記され その右隣には「向井政盛」と読める
次掲「安宅丸建造の経緯」をご覧頂きたい 上掲碑文にある「…安宅丸は北条氏が造船したもので…中略…豊臣秀吉の手に渡り…中略…徳川氏の取得するところとなって…略」は誤りであると思われます
新大橋1丁目は新大橋通りを挟んで南北に分かれており 新大橋2丁目と3丁目も同様です
安宅丸建造の経緯
新設:2018-12-19
安宅丸建造の経緯は 鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」2014年7月 新潮社刊 の 138~145頁に記された「安宅丸の装飾と相州三崎」の項を参照頂きたいが その概要として 同書143頁に掲載の表を 次のとおり引用させていただく
- 寛永8年
- 向井将監忠勝 大御所秀忠より安宅船建造を命ぜられる (「向井将監書付」)
- 寛永9年8月
- 安宅船の設計図が完成し 伊豆山中より船一艘分の船材伐採の許可を受ける (老中稲葉正勝らの証文)
- 寛永10年7月
- 航行に必要な艤装が終え 安宅船が完成 江戸へ廻航 将軍家光上覧 装飾絵図を示し御墨付を得 三浦三崎に廻航 (酒井忠勝書状・『公儀所日乗』)
- 寛永11年夏
- 三浦三崎で装飾作業が成就 江戸へ廻航 (「向井将監書付」)
家光は上洛中 (『徳川実紀』)
- 寛永11年10月
- 家光が京都より還御 上意を受け装飾の手直しを命ぜられる
- 寛永12年6月
- 家光 安宅船の船魂祭 (『江戸幕府日記』)
(前)新大橋名板
撮影:2018-12-08
案内板 (江東区教育委員会案内板)
新大橋名板 平成18年10月27日登録
この橋名板(きょうめいばん)は 明治45年(1912)に架けられた新大橋の橋名板で 現在の新大橋(昭和52年完成)に架け替えられるまで 江東区側の正面上部のアーチを飾っていたものです。
新大橋は 隅田川に架かる3番7めの橋として 元禄6年(1693)に架けられました。明治時代になり 橋の交通量が増加したため それまでの木製の橋から鉄橋に替わり 同時に約200m上流の現在地に架けられました。
周囲の飾りは大半がはがれ落ちてしまい 中央の「志ん於ほはし」(しんおおはし)の文字も跡が残るのみとなっています。 写真は 昭和30年ごろの新大橋ですが
文字は「志んおおはし」となっています。おそらく戦後 橋の改修をした時に 文字の部分も修復したのでしょう。
昭和48年に新大橋の架け替えが決定し それまでの橋が取り外されることになりました。八名川(やながわ)小学校PTAを中心とした地域の人びとは 町のシンボルとして親しまれてきた橋の記念として
この橋名板を保存することを希望し ここに残されました。
なお 中央区側の橋の一部は 明治の面影をとどめる橋として 明治村(愛知県犬山市)に移され保存されています。
平成18年11月
江東区教育委員会
補 足
橋名板と同案内板は 江東区新大橋3-1-15 (八名川小学校北面)に設置されている
新大橋1丁目~3丁目は 新大橋通りを挟んで南北に分かれている
参考Webサイト
新大橋橋名板 3点 附 架橋工事技師在銘板 江東区役所サイト
中央区民文化財50 新大橋の橋名板 中央区役所サイト
案内板 (江東区教育委員会案内板)
六間堀跡 所在:新大橋3-18~常磐1-19
六間堀は 深川村開拓の当初 小名木川と竪川を結ぶ水路として開けたようです。名称は 川幅が6間(約10.8m)あったところから付けられたもので
地元にとって重要な河川でした。
しかし 水運利用の減少によって 昭和26年に埋め立てられました。六間堀の跡は 道路と宅地になっていますが 歩いてみると 当時堀割であった頃の様子が
よくわかります。
名所江戸百景 大はしあたけの夕立
撮影:2018-12-08
案内板
大はしあたけの夕立
新大橋は 元禄6年(1693) 5代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時 両国橋が大橋と称していたので この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の 「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである
補 足
新大橋1丁目2番の小公園には「御船蔵跡碑」が建っているが より隅田川に近いところに 明治時代に架けられた(前)新大橋の親柱が設置されている ただ
何の表示もない
新大橋1丁目~3丁目は 新大橋通りを挟んで南北に分かれている
参考Webサイト
名所江戸百景 大はしあたけの夕立 文化遺産オンラインサイト
名所江戸百景 大はしあたけの夕立 国立国会図書館デジタルコレクションサイト