(向井)氏の始祖と向系図 ~向始祖長宗から武田水軍向正重まで~


『清和源氏向系図』



仁木

義勝 ―― 頼章
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   |
    ― 義長 ―― 満長                                    ― 正行(政勝)
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        |                 ― 公仲                  |
           向祖             |                        向井   将監
        |                |                     |
         ― 長宗① ― 長興② ―― 長忠③ ―― 長春④ ― 長勝⑤ ― 忠綱⑥ ―― 正重⑦ ―― 政綱❶ ― 忠勝❷
        |          |                     |
        |          |                     |
         ― 長時         山中祖                  ― 正利 ――― 正直 ―― 正吉
                    |
                    ― 奥春






『尊卑分脉』第三篇



源           足利祖          仁木祖
                         
頼義 ― 義家 ― 義国 ― 義康 ―― 義清 ― 義実 ― 実国 ―― 義俊 ― 義継 ― 師義 ―― 義勝 ―― 頼章
                                         |    |
                                         |    |
                                          ― 義任  ― 義長 ― 満長




 
歴代 氏名 生年月日 没年月日 行年 父親 事項
仁木 義長 元応 2年 3月 3日
1320年 4月12日
永和 2年 9月10日
1376年10月23日
52歳 仁木義勝 仁木次郎四郎右京太夫 越後守 源頼義流・仁木実国の後胤
没年月日はWikipediaから採った

始祖
長宗 延文 4年 3月 1日
1359年 3月30日
応永25年 2月29日
1418年 4月 5日
60
仁木義長 仁木四郎 法名:宗光院道善
応永4年2月1日(1397年2月28日) 自将軍義持公伊賀国向庄下賜則仁木改向尾張守号度々依武功也

2代
長興 康暦 2年 7月 9日
1380年 8月 9日
不明 不明 長宗 中務大輔
応永22年7月朔日(1415年8月5日) 自将軍義持公日吉於前美濃国山中庄下賜

3代
長忠 応永12年12月 1日
1405年12月22日
享徳元年 5月 6日
1452年 5月24日
47
長興 三郎修理亮
永享10年10月(1438年10月) 将軍義教公鎌倉持氏公不和合戦時将軍方属勇功積
山中祖 奥春 応永14年 2月25日
1407年 4月 3日
不明 不明 長興 長忠弟 庄之助 山中右衛門 美濃国山中庄領
山中庄は 奥春の兄長興が将軍義持から給った地で 現岐阜県不破郡関ヶ原町大字山中に当り 古来三関の一「不破関」に近い交通の要所で 後に関ヶ原合戦の舞台となった地

4代
長春 永享 9年 4月 5日
1437年 5月 9日
延徳 2年 1月12日
1490年 2月 1日
54歳 長忠 三郎 式部大輔 修理公仲兄
寛正元年更辰九月(1460年9月)畠山右衛門佐義就謀叛依畠山政長雖討手向義就強敵故政長軍利依無之将軍義政公加勢乞同三年四月(1462年5月)細川成之山名是豊武田佐々木伊勢国司北畠数具向長春弟修理共重而向攻之義就敗北長春兄弟諸士抽功績
応仁元年丁亥正月(1467年2月) 細川勝元山名右衛門督持豊入道宗全不和前将軍義視公宗全方御座同九月四日義視公京出伊勢国北畠中納言教具卿館御座同十七日長春一番参警固
同二年十月(1468年10月)義視公上路時弟修理供奉勤

長春弟
公仲 文安 2年
1445年
不明 不明 長忠 修理
寛正三壬午四月(1462年5月)河内嶽合戦有大誉十八歳時也

5代
長勝 寛正元年 8月 9日
1460年 8月29日
文亀 2年 5月23日
1502年 6月23日
43歳 長春 右衛門佐
抑口論敵五人切殺数ヶ所手負腹切不叶刀啐死

6代
忠綱 長享 2年 2月 1日
1488年 3月14日
天文22年
1553年
66歳 長勝 三郎太郎 刑部大輔
永正2年乙丑6月(1505年7月)北条早雲近国威振忠綱十八歳早雲合戦得勝利重軍猶雖勝利大敵後詰依無之引退
忠綱の没地は『寛政重修諸家譜』によれば伊勢国慥柄(たしがら)で現三重県度会郡南伊勢町慥柄浦に当り 忠綱の三男・城右衛門正利(向7代正重弟)以来 子孫が代々居住という

7代
正重 永正16年
1519年
天正 7年 9月19日
1579年10月 9日
61歳 忠綱 助兵衛尉 伊賀守 向井政綱父 向井左近将監忠勝祖父
弘治(1555-1557)年中今川義元卿 朝比奈駿河守以招給依駿河下義元卿属今川家没落以後武田晴信卿ヨリ山縣三郎兵衛昌景以招呼給
元亀3年(1572)より晴信公仕度々武勇誉有天正5年(1577)駿州興国寺在城勝頼卿より感書を給ふ
其後同国用宗之城守天正七己卯年九月十九日(1579年10月9日)徳川公兵一万以御動座先陣松平家忠甚太郎牧野康成右馬之允以攻給ふ伊賀守諸卒に下知して相戦といへとも兵つき運きわまって六拾一歳尓して自害す

政勝 天文7年
1538年
天正 7年 9月19日
1579年10月 9日
42歳 養父正重 正行伊兵衛尉 実父長谷川長久長男
武田晴信卿勝頼卿に仕 父伊賀守正重と同用宗城尓おいて勇功をはげまし 四拾二歳して自害す
向井氏の発祥地
JR関西本線加太駅構内の跨線橋から加太向井方面
手前の左から右へは加太市場
その向こうは加太向井 右はJR加太駅
徳川氏麾下向井氏系図略歴


          ― 正俊 (長男)
向井       |
         |
政綱① ― 忠勝② ―― 直宗③(2男)
         |
         |
          ― 正方④(5男) ― 正盛⑤ ― 正員⑥ ― 政使⑦ ― 政香⑧ ― 正直⑨ ― 正通⑩ ――
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         |                                       |
          ― 正興 (6男)
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                                                 |
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 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ―― 吉次郎正民(早世)


 ―― 原次郎正業(早世) ―――― 正養(幼少)
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|                 
|                 ↓
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 ―― 養子戸田金三郎正義⑪ ―― 正養(養子) ―― 鋒吉 ―― 藤一 ―― 辰郎※
              |
              |
               ―― 文哉 ―― 二郎






正義⑪は 幕府滅亡に接した最後の「将監」で のちに「秋村」の名で「炉辺談話」を『旧幕府』5巻2号に記した

※印の辰郎氏は『清和源氏向系図』の内容公開を 鈴木かほる氏に 託した




歴代 氏名 生年月日 没年月日 行年 父親 事項
向井
初代
政綱

まさつな
弘治 2年
1556年
寛永元年 3月26日
1624年 5月13日
69

正重
正重実子 兵庫介 兵庫頭 家紋上り藤丸 室長谷川伊勢守長久女
天正7年(1579)9月19日 父伊賀守正重が養子政勝と共に 駿河持舟(用宗)城で戦死の際 清水袋城にいて生残った政綱(24歳)に武田勝頼が同年10月16日 向井兵庫介(政綱)殿宛書面で父正重遺跡の相続を安堵、初めて「向井」が使われた
政綱は 父正重を失った半年後の天正8年(1580)4月と天正9年(1581)3月 北条水軍との伊豆西海岸海戦での活躍が光る
天正10年(1582)3月の甲斐武田氏滅亡後 同年6月 家康の命を受けた本多重次の説得により政綱は徳川麾下(200俵蔵米)に いかにも微禄な出発点
天正10年(1582)6月の本能寺の変の後 同年8月 伊豆方面で徳川と北条の緊張が高まったとき 向井政綱と小浜景隆の名が徳川陣営にあった
天正12年(1594)2月~ 家康が織田信雄を援けて秀吉と戦った小牧・長久手の役で 伊勢小浜浦にて九鬼水軍大隈守嘉隆に勝ち 向井水軍を世に知らしめた
天正18年(1590) 家康を送迎する御召船奉行として国一丸を預かり、秀吉による北条攻め(小田原の役)の先陣となった徳川軍にあって政綱は目覚ましい活躍をし 同年8月の家康関東入りでは 徳川水軍の筆頭となって三浦郡三崎に移住 相模上総両国内に2000石を賜う(政綱35歳、忠勝9歳)
文禄元年(1592) 秀吉の朝鮮出征に当り 突貫工事で建築された肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に船手頭の政綱は小浜光隆らと共に家康の援兵として在陣、秀吉政権下で家康の面目を保つのに貢献
慶長5年(1600)3月16日 英国人航海士ウイリアム・アダムス(三浦按針)ら乗船のオランダ船・リーフデ号が豊後国臼杵佐志生の黒島に着岸、家康の命で 政綱がリーフデ号を和泉堺湊を経て江戸へ回航途中 遠州灘で逆風に阻まれ破船 相州浦賀湊に避難するも航行不能に(このとき政綱は三浦按針に出会った筈)
関ヶ原合戦の際 慶長5年(1600)9月1日 政綱は家康を神奈川湊から金沢湊まで国一丸で送り 伊勢に向け出動するが 難風が続き遠州縣塚に避難中に家康の勝利を知る失態となり 家康の勘気に触れるも釈明し勘気を解いた
家康が三浦按針に命じた外洋航行可能な洋式帆船建造には 子忠勝と共に支援を惜しまず 慶長年間2度にわたるスペイン船の上総浦漂着には 漂着者の三浦按針船での帰国に至るまで政綱忠勝父子が丁重な対応をした
慶長19年(1614)と慶長20年(1615)の大坂両陣では 政綱は相州安房に留まり 江戸内海を警固した
元和2年(1616) 三浦郡三崎に見桃寺が 政綱が開基となって創建される
元和6年閏12月3日(1621年1月25日) 政綱は 三浦郡三崎の宝満寺(三崎円照寺)、真福寺、最福寺に三崎二町谷村の一部を寄進 現最福寺の場所は政綱邸跡
政綱は 三崎見桃寺に葬られ 興津清見寺には墓塔が父正重、兄政勝と並ぶ
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向井
2代
忠勝

ただかつ
天正10年 5月15日
1582年 6月 5日
寛永18年10月14日
1641年11月16日
60
政綱 政綱実子惣領 初代将監 室長谷川七左ヱ門少尉藤原長綱女
慶長2年(1597)より秀忠に仕え始める(16歳) 以後 秀忠の寵愛を受ける
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦の際 忠勝は秀忠付船手頭であったが小山評定の結果 9月1日 父政綱に従って伊勢に向け出動するが 難風が続き遠州縣塚に避難中に家康の勝利を知る このとき忠勝は初陣(19歳)で父政綱から操船技術と船手頭心得を学ぶこと大 戦後の翌慶長6年に 父政勝とは別に相州内500石と秀忠御召船役を賜る
家康が三浦按針に命じた外洋航行可能な洋式帆船建造には 父政綱と共に支援を惜しまず 慶長年間2度にわたるスペイン船の上総浦漂着には 漂着者の三浦按針船での帰国に至るまで政綱忠勝父子が丁重な対応をした
慶長14年(1609)9月 大御所家康が西国大名から500石以上の大船を没収し海運・水軍力を制限したとき 志摩国鳥羽城主九鬼守隆を大船没収奉行とし 検使役役に幕府弓頭久永重勝と船手頭向井忠勝を添えた
慶長19年(1614)の大坂冬の陣で強風に阻まれるも11月17日迄に忠勝船団が攝津伝法口に着岸 父政綱から離れ初実戦に臨み大いに戦果をあげた
慶長20年(1615)2月 将軍秀忠より500石加増され1000石に
慶長20年(1615)の大坂夏の陣では 4月 攝津尼崎・伝法口の海上封鎖後 堺浦で大野道見の足軽隊との砲撃戦で右乳上に被弾負傷 徳川氏が抵抗勢力を一掃後 秀忠の老中酒井利勝の指示により大坂港に留まり戦後処理に従事
元和2年(1616) 三浦郡三崎宝蔵山 北条氏規の三崎城跡(現三浦市役所の地)に屋地を貰い 父政綱とは別に本邸を構えた
元和3年(1617)2月 2000石を加増され3000石となり父政綱を越え 寛永2年(1625)5月に父の遺領2000石と合わせ5000石に 7月 大御所秀忠より改めて相州三浦郡26ヶ村、上総望陀郡3ヶ村、周准郡大和田村(君津市)を合わせ6000石余を賜った
元和5年(1619) 秀忠は大坂を直轄地とし幕府直属の大坂船奉行を新設 初代奉行に小浜光隆を抜擢し 江戸船手頭筆頭の後任を向井忠勝とした
寛永5年(1628)12月 鎌倉八幡宮楼門前に銅製の華やかな灯篭1対寄進
寛永7年(1630)6月 将軍家光の御座船天地丸を建造完成させ その上覧を指揮 天地丸は500石積軍船で御召船に相応しく華麗に装飾されていた
寛永8年(1631) 大御所秀忠より巨船安宅船建造を命じられたが秀忠は翌年没
寛永9年(1632)版『武州豊嶋郡江戸庄図』に幕府船手頭江戸邸群が楓川東側に描かれ 忠勝上屋敷と子直宗邸は楓川が日本橋川に合流する東詰にある
寛永10年(1633)7月 巨船安宅船は航行に必要な艤装を終え完成 江戸へ回航 家光上覧 装飾絵図に御墨付を得て三浦三崎に回航のうえ装飾作業
寛永11年(1634)夏 巨船安宅船は安宅丸と命名され 装飾完成し江戸に回航 家光の命で装飾の一部手直後の 翌寛永12年(1635)6月 安宅丸の鎮魂祭
寛永14年(1637) 深川に 臨済宗妙心寺派 長光山陽岳寺を 開基となって創建
寛永18年(1641)10月14日 江戸上屋敷で病死 上野寛永寺支院の東叡山本覚院に葬られ 本覚院の廃院に伴い 明治17年(1884)2月 深川陽岳寺に改葬
寛永18年12月 忠勝遺領のうち 2男直宗が5000石 5男正方が1000石を継承
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向井
正俊

まさとし
慶長 3年
1598年
寛文11年 6月
1671年 7月
74歳 忠勝 忠勝1男(長男) 五郎八 五郎左衛門 船手頭
慶長19年(1614) 大坂冬の陣で父忠勝と共に大坂に赴き 住吉で家康に拝謁
寛永5年(1628) 将軍家光の勘気に触れ 謹慎の身となり高野山に入山
寛永14年(1637) 島原の乱が起こると 翌年2月 熊本藩主細川忠利の先手として奮戦し 原城落城の前日2月27日 城内で負傷し帰陣
慶安元年(1648)6月3日 徳川家康の33回忌により赦免 廩米500俵を給わる
承応元年(1652)11月3日 船手頭となり水主50人を預かる
承応3年(1654)7月13日 正俊子水主某 初めて4代将軍家綱に拝謁
明暦2年(1656)4月 高野山般若院との宿坊契約確認書を 忠勝1男正俊、5男正方、6男正興、正方子・正盛の4人連名で提出
明暦2年(1656)6月18日 配下水主36人が直訴 同25日 罰せられ 正俊は改易
黒田日出男著『江戸名所図屏風を読む』は「江戸名所図屏風」の発注者は正俊で 制作時期は承応元年(1652)11月から明暦2年(1656)6月までの4年に満たない期間とする
向井
3代
直宗

なおむね
慶長12年
1607年
正保元年 6月17日
1644年 7月20日
38
忠勝 忠勝2男 忠宗 右衛門佐 室伊奈忠次女
寛永6年(1629)伊豆から搬送の江戸城普請石材を霊岸島の父忠勝屋敷で受取り年寄衆に渡す仲介役を担う
寛永9年6月(1632年6月)船手 同年版行「武州豊嶋郡江戸庄図」の父忠勝屋敷隣に直宗邸がある
寛永11年(1634)将軍家光上洛時の伊勢国桑名渡船
寛永11年(1634)夏安宅丸装飾完成し同10月将軍家光上覧 翌12年6月船魂祭後に安宅丸建造に携わった忠勝と直宗・正方の親子3人褒美を受ける
寛永18年(1641)父忠勝の遺領6千石のうち5千石継承 残1千石は正方が継承
父忠勝没後三崎・伊豆の御番役を継承、干鰯問屋株発行権を掌握
寛永19年(1642)4月西国巡見に出発
父忠勝没3年後(1644)に没、直宗・室・子の墓碑が三浦市見桃寺にある
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向井
4代
正方

まさかた
元和 6年
1620年
延宝 2年 7月10日
1674年 8月11日
55歳 忠勝 忠勝5男 忠綱 鶴千代 兵部 将監 室服部氏従五位下玄蕃頭源冬次息女
寛永4年(1627) 将軍秀忠に初拝謁(8歳)
寛永5年(1628)12月 父忠勝が鎌倉八幡宮楼門前に銅製灯篭1対滋野景義と協同で寄進、立願は忠勝自身と5男正方(9歳9の武運長久・寿算(寿命)遠大・御家繁栄であり、兄直宗は健在であった
寛永7年(1630) 6月25日 将軍家光の天地丸上覧時 父忠勝に従い御盃を賜り 翌日時服3領羽織1領を賜る
寛永15年(1638) 廩米300俵を賜る
寛永18年(1641) 12月4日 父忠勝の遺跡相州三浦郡のうちから1000石を継承 先の廩米300俵を弟正次に賜い、兄直宗の水主30人を預けられ御船奉行に
寛永19年(1642) 5月6日 家光の隅田川遊猟時に潮時を間違え叱責を受けた
正保元年(1644)7月6 兄直宗の没し その水主50人を預けられ御召船奉行に
慶安3年(1650)9月19日 安宅丸修理を命ぜられ神保茂明、関兵部氏盛と成就
明暦2年(1656)4月 高野山般若院との宿坊契約確認書を 忠勝1男正俊、5男正方、6男正興、正方子・正盛の4人連名で提出
萬治元年(1658)5月4日 将軍家綱安宅丸初上覧 時服3領羽織1領賜る
寛文2(1662)年6月 家綱安宅丸天地丸を上覧 酒肴・盃台献じ 同11日に相州三浦郡のうち1000石を加え 計2000石を知行
寛文3年(1663)9月 母貞昌院(中田高女)没を機に大津村の吸江庵に寺地を寄進し貞昌寺と改号
正方は延宝2年(1674)7月10日に没し 江戸を望む貞昌寺の裏山に埋葬
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向井
正興

まさおき
寛永4年
1627年
宝永5年 7月 6日
1708年 8月21日
82歳 忠勝 忠勝6男 八郎 八十郎 八郎兵衛 兵庫助 致仕号空参 妻春日左衛門家次女
寛永16年(1639)2月5日 将軍家光に初拝謁(13歳)
寛永18年12月4日(1642年1月4日) 兄直宗に給いし廩米500俵を給う
正保2年(1645)6月25日 御書院番に列し 慶安3年(1650)9月3日より西城に勤仕し のち本城に勤仕
明暦2年(1656)4月 高野山般若院との宿坊契約確認書を 忠勝1男正俊、5男正方、6男正興、正方子・正盛の4人連名で提出
寛文3年(1663)4月 将軍家綱が日光山に詣でるとき従者となる
寛文5年(1665)駿府城勤番の際 廃城の持舟城跡を巡検し 曾祖父正重の功績を偲び 祥月命日の同年9月19日に供養碑を建立
寛文7年(1667)閏2月28日 高林又兵衛直重と共に西海山陰山陽の海辺の巡検の命を受ける
寛文9年(1669)閏10月18日 年ごろ怠りなく勤めたことで黄金3枚を賜る
延宝2年(1674)7月9日 御船手となり水主同心46人を預かる
延宝2年(1674)11月13日 祖父向井政綱の供養碑を高野山に建立
天和2年(1682)4月21日 下野国梁田、上野国邑楽、新田3郡のうちから采地400石を加給される
元禄6年(1693)5月13日 務めを辞す
元禄7年12月7日(1695年1月21日)致仕し 養老の料廩米300俵を給う
宝永5年(1708)7月6日 没す
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向井
5代
正盛

まさもり
正保 3年
1646年
宝永 2年11月15日
1705年12月30日
60歳 正方 正房 吉三郎 弐部 将監 致仕号竹翁 妻彦坂壱岐守重紹女
承応3年(1654)7月21日将軍家綱に初拝謁(9歳)
明暦2年(1656)4月 高野山般若院との宿坊契約確認書を 忠勝1男正俊、5男正方、6男正興、正盛の4人連名で提出
寛文2年(1662)6月10日 将軍家綱の安宅丸上覧で 父正方が正盛を見習として従わせ上覧の指揮を執った
寛文3年(1663)11月19日 御小姓組番士
寛文7年(1667)6月25日番士を辞し父正方の職務見習に
延宝2年(1674)9月22日 父正方の遺跡を継承
将軍綱吉就任2年目の奢侈禁制下 天和2年(1682)年9月18日 中奥小姓の正盛らに諮られ 船令50年の安宅丸を解体
天和2年(1682)年4月 400石加増され 向井将監家の石高は2400石となり幕府滅亡まで保持された
元禄9年(1696)三崎奉行廃止に伴い 三崎周辺の水主が生活の糧を漁業に求めることとなり、元禄10年(1697) 最福寺が西浜から向井政綱邸跡に移転
元禄11年(1698)11月 直宗屋地が上知 代替地・本所石原(2500坪)が下賜
深川陽岳寺に埋葬
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向井
6代
正員

まさかず
不明
享保18年 7月24日
1733年 9月 2日
不明 正盛 伊織 妻中山勘解由直房女
貞享4年(1687)9月6日 将軍綱吉に初拝謁
元禄12年(1715)11月29日 父正盛の職務を見習う
元禄16年(1719)12月16日 遺跡を継ぎ 御船手
享保17年(1732) 職を辞し寄合に列す 深川陽岳寺に埋葬
向井
7代
政使

まさよし
享保 3年
1718年
宝暦 7年 3月 1日
1757年 4月18日
40歳 正員 伊織 妻天野三次郎康永女
享保18年(1733)10月26日遺跡を継承(16歳 小普請)
延享4(1747)5月16日 御書院番士 宝暦元年(1751)9月番を辞す
宝暦3(1753)年7月21日御船手 深川陽岳寺に埋葬
向井
8代
政香

まさか
寛保元年
1741年
不明 不明 政使 伊織 妻小笠原十蔵長員女
宝暦7年(1757)6月3日 遺跡を継承(17歳 采地2400石)
明和5年(1768年)6月11日 御船手
向井流水法流儀が正香の代に整理され 養子正直が「向井流水法秘伝書」を完成
安永3年(1774) 向井4代正方夫妻と正方母の菩提寺・貞昌寺住職と相計って貞昌寺を現在地に移転
寛政5年(1793)3月 異国船渡来に備える海防のため 船方調練・武器修復・船見番所建設が通達され、政香は三浦番所で水主同心の海船帆手修行を指導
上野本覚院に埋葬 明治17年(1884) 深川陽岳寺に改葬
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向井
9代
正直

まさなお
明和 5年
1763年
文政4年
1821年
59歳 養父政香 正武 正慶 左門 松平因幡守康眞七男 向井正香養子 妻伊東山城守祐峯女
寛政3年(1791)3月21日将軍家斉に初拝謁(24歳) 同年8月28日御船手見習
寛政9年(1797)7月 浅草川で 将軍家斉の交馬川渡し上覧に供し、浜御殿で海手組15人の水泳を披露
寛政10年(1798)7月13日天地丸
文化4年(1807)「向井流水法秘伝書」完成し会津藩、佐倉藩、松江藩に伝授
文化7年(1810)大津村の向井将監陣屋、三浦郡領上知され会津領となる
深川陽岳寺に埋葬 「寛政譜」は正直で終わるが向井将監は幕府崩壊まで続く
向井
10代
正通

まさみち
寛政8年
1796年
不明 不明 正直 文化9年(1812)6月 父正直が病のため正通が代って会津藩士5名に水泳指導
文化12年(1815) 船手見習
文政元年(1818)9月 両国橋下で馬川渡(水馬)を将軍家斉に披露
文政4年(1821)9月 家督相続
文政9年(1826)、同11年(1828)、同12年(1829)、天保13年(1841)に浜御庭海手で船手組が水泳を披露
天保12年(1840)7月 深川安宅御蔵前で天地丸乗船の将軍家慶に乗り 徒士、水主が水泳を披露
嘉永6年(1853)ペリー来航時 正通は江戸常駐船手頭として江戸内海全般海上軍事の担当であった
安政2年(1855) 鷹匠頭戸田五助3男戸田金三郎を正通の聟養子正義とした
『向井辰郎家過去帳』によると正通と正通室は深川陽岳寺に埋葬という
向井
11代
正義

まさよし
天保9年
1838年
明治39年 3月24日
1906年 3月24日
68歳 養父正通 安政2年(1855) 鷹匠頭戸田五助3男戸田金三郎が向井正通の聟養子正義に
安政5年3月26日(1858年5月9日) 正義が御船手となる
文久2年7月4日(1862年7月30日) 船手役が廃止され 軍艦奉行の配下として 正義は船手頭筆頭を勤めた功により御軍艦操練所頭取(勝麟太郎と並び)
慶應3年10月14日(1967年11月9日)討幕の密勅が下り 将軍慶喜は大政奉還
慶應3年12月9日(1868年1月3日)王政復古が発せられ 将軍慶喜は仏人顧問団のシャノアンらの帰国に向け 向井正義が操船する汽船順動丸で大坂へ護送 慶應4年1月6日(1968年1月30日) シャノアンらを大坂城に届ける
慶應4年1月7日(1968年1月31日) 徳川慶喜追討令が出ると 正義は伊豆に土着を命ぜられ伊豆守に
慶應4年(1868)3月 歩兵奉行を辞し 義兄弟正業の子で養子の正養に本家を譲り返して平民となり 4月1日 向井秋村と改め 伊豆下田蓮台寺に隠棲
正義は最後の向井将監であり 深川陽岳寺に埋葬された
正義の職名等の変遷は 次のとおり
 将監正義・船手組頭→向井将監・御軍艦操練所頭取→左門正義・御使番
 →豊前守正義・歩兵頭→豊前守正義・横須賀製鉄所奉行並
 →伊豆守正義・歩兵奉行並→向井秋村