新設:2019-01-23
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-11-23
名 称
浄土宗 道本山東海院霊巌寺
所在地
東京都江東区白河1-3-32
開 創
寛永元年(1624)
開 山
雄誉霊巌(浄土宗 総本山知恩院第32世)
本 尊
阿弥陀如来
縁 起
「江東区の民俗深川編」 2002年 江東区教育委員会刊 のP.313-5 霊巌寺由緒 から抜粋
開山上人は 浄土宗総本山知恩院第32世雄誉霊巌上人。江戸に教えを広めようと 今の茅場町あたりに草庵を建てた。上人の徳を慕う人が増え 草庵が狭くなったので
向井将監忠勝の下屋敷の芦沼を賜り 信者の 協力を得て 寛永元年(1624)に道本山東海院霊巌寺を建立した。
寛永5年に浄土宗の檀林に列せられる。学寮が百二十余あり 多くの僧侶が修行していた。明暦3年(1657)の大火で焼失し 翌万治元年(1658)
現在地に替地を与えられ 第3世珂山上人は松平忠倶(信濃飯山藩主)の協力により移転復興させた。大震災・戦災に遭い 現在の本堂は昭和56年(1981)に完成したものだという。松平忠倶の墓は境内に残る(「浄土宗道本山東海院霊巌寺」)。
霊巌上人の生涯
江東区の民俗深川編」2002年 江東区教育委員会刊 のP.313-5 霊巌寺由緒 から抜粋
霊巌上人は天文23年(1554) 沼津で今川家の一族 沼津土佐守氏勝の3男として生まれた。父・2人の兄はこの年 三河攻めで討ち死にしていた。
上人は永禄7年(1564) 11歳のとき沼津浄蓮寺に出家する。その後 下総国生実の大巌寺で修行し 大巌寺3世となり 天正18年(1590)に辞し
南都に向かい 永亀山肇叡院霊巌寺など十数力寺の開基となった。
文禄元年(1592) 家康は霊巌の南都での話を聞き 関東に戻り 「大巌寺で再び法幢を立つべき」と伝えさせ それを聞いた上人は再び大巌寺3世となり
大網村に大巌院を創建した。その後 江戸に出て 道本山霊巌寺を茅場町に草創した。
霊巌上人は霊巌寺の落慶が終わるとすぐに本山知恩院に転任し 寛永6年(1629) 第32世住職となる。寛永10年(1633) 知恩院が火事で焼失し
再建に努力し 寛永13年(1636) 東洋一の洪鐘も完成し 寛永15年(1638)、諸堂が完成する。伽藍造営の御礼として寛永18年(1641)に関東に向かい
江戸で亡くなる。88歳であったという(「雄誉霊巌上人伝」)。
学寮・別院・塔頭
「江東区の民俗深川編」 2002年 江東区教育委員会刊 のP.313-5 霊巌寺由緒 から抜粋
学寮は 西方に13寮、南方に9寮、東方に11寮、最東方に8寮あったという。
別院は 長専院・雄松院・済生院
塔頭は 正覚院・成等院・栄寿院・深照院・安養院・開善院・浄閑院・松林院、八庵として、広閑院・済乗院・霊光院・見松庵・潮江庵(潮江院)・吟松庵・清澄庵・臨海庵があったという(「新撰東京名所図会」)。
参考Webサイト
霊巌寺 猫の足あと サイト
霊巌寺 ウィキペディア(Wikipedia)
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」 新潮社刊
文化財・史跡
松平定信の墓
撮影:2018-11-23
案内板 (山門前歩道上)
霊巌寺 (松平定信墓)
由 来
松平定信は 江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり 天明7年(1787) 老中となりました。定信が行った政策は 寛政の改革といわれ 天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は
町方入用を節約させ 不時の備蓄にあてたものです。明治には 東京府の公共事業に役立ちました。
この霊巌寺にある墓は 昭和3年に 国の史跡に指定されています。
案内板 (東京都教育委員会案内板 松平定信墓所門前)
史跡 松平定信墓
所在 江東区白河1丁目3番32号 霊巌寺
指定 昭和3年1月18日
松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫 田安宗武の子として生まれ 陸奥白河藩主となり 白河楽翁を号としていた。
天明7年(1787)6月に老中となり 寛政の改革を断行 寛政5年(1793) 老中を辞している。定信は老中になると 直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い 幕府体制の立て直しを計った。また 朱子学者でもあり 『花月草子』『字下の人言』『国本論』『終身録』などの著書もある。
昭和51年3月31日 建設
東京都教育委員会
参考Webサイト
松平定信 ウィキペディア(Wikipedia)
寛政の改革 ウィキペディア(Wikipedia)
銅像地蔵菩薩坐像
新設:2018-12-19
案内板 (東京都教育委員会案内板)
東京都指定有形文化財 (彫刻)
銅像地蔵菩薩座上 (江戸六地蔵の一)
所在地 江東区白河1-3-22
指 定 大正10年3月
江戸六地蔵の由来は その1つ大宗寺の像内にあった刊本「江戸六地蔵之建立略縁起」によれば 江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり 病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ
無事治癒したことから 京都の六地蔵に倣って 宝永3年(1706) 造立の願を発し 人々の浄財を集め 江戸市中6ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ1軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には
勧進者 その造立年代などが陰刻されており 神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち 深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は
廃仏毀釈で取り壊され 5軀が残っています。
六地蔵のうち 霊巌寺の地蔵は第5番目で 享保2年(1717) に造立されました。他の六地蔵に比べ 手の爪が長く 宝珠を持つ左手の指のうち 4本の指が密着した形になっています。像高は
273㎝あり かっては鍍金が施されており 所々に金箔が残っています。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり かつ違例の少ないものであることから文化財に指定されました。
平成23年3月 建設
東京都教育委員会
向井将監忠勝後室の墓
霊巌寺照会:2018-12-08
鈴木かほる著「戦国期武田水軍向井氏について ―新出『清和源氏向系図』の紹介―」の20頁 神奈川地域史研究第16号 1998年3月刊(当該文献複写別添)に
次の通り掲載されている。
忠勝妻 江州浪人 中田高心娘
寛文四年甲辰年十一月十五日六拾四歳尓して於武州江戸病死深川霊岩寺に葬法号
天窓院殿清誉教運宝寿大姉
これは 忠勝後室が いわゆる明暦3年(1657)の大火から7年後に病死し 霊巌寺が現在地に移転後に葬られたことを伝えている。
『清和源氏向系図』のとおり 霊巌寺に向井将監忠勝後室の墓が現存するか否か また 現存しないが過去において存在したか否かを尋ねるため 2018年12月8日に霊巌寺を訪ね
ご教示をお願いしたところ 概ね 次の回答が ご住職から口頭であった。
関東大震災 大空襲を含む度重なる火災により 記録文書が失われており 照会のことは不明であるが 当寺墓所には該当の墓はない。当寺にある墓は大名格のもの。
往時 多数の塔頭があったので どこかの塔頭にあるかも知れないが 現在は それぞれ独立した寺院となっており わからない。なお 本件についての照会は初めてである。
霊巌寺と富岡八幡宮
「江東区の民俗深川編」 2002年 江東区教育委員会刊 のP.313-5 霊巌寺由緒 から抜粋
霊巌上人は かねてから鎮守をお祀りしようと思っていた。
深川の一村に鶴岡八幡宮があったが遠かった。およそ十町ほど手前に弁天社があり 渡場七処あった。そこは地所が広く 大社を造るのによいので 八幡宮をここに移し 霊巌寺の鎮守にしようと 氏子の長などに相談のうえ 富岡に移した。
その縁で 祭礼の時には神輿を門内に入れ 代々の丈室拝礼があり 青銅一貫文神前に供える古例があり そういう因縁から中央区霊巌島が富岡八幡宮の氏子になっている。
「雄誉霊巌上人伝」には 富岡八幡宮の創成に 霊巌上人が関係していたという説が出ている。霊巌島が富岡八幡宮の氏子であるのは事実なので このような説が出たのであろうか。