新設:2018-11-09
更新:2022-11-13
概要
撮影:2016-01-06
名 称
向井正方夫妻墓碑
所在地
神奈川県横須賀市池田町1-24-11の西(右)隣区画
<注>
建物があれば池田町1-24-12となる場所で、地番は池田町1-79-18
後述の補足欄を参照
案内板 (案内板「昭和52年市制施行70周年記念 横須賀風物百選」)
向井正方夫妻の墓
向井将監正方は、向井忠勝の5男として生まれました。その祖先は、南朝の水軍の将として、勇名をはせた人物と伝えられています。
寛永18年(1641)、父忠勝の所領6千石のうち三浦郡の一部千石を与えられて、御船手奉行や、伊豆、三浦の海防にあたり、百人の水主を預けられ、浦賀水道の警備に力を尽くしました。その功績により、寛文2年(1662)、4代将軍家綱のとき、所領2千石を賜りました。その知行地は、三浦郡のうち、大津、森崎、小矢部、金谷、池上、不入斗の各村にわたっています。
正方は、延宝2年(1674)7月15日に没しましたが、生前から自分の墓は江戸の見えるところと申しおいていたため、貞昌寺域内にある裏山の高い所に葬られました。
また、正方の妻は、服部玄蕃頭源冬次の娘で、正方に先立つこと4年、寛文10年(1670)9月14日に没しています。
ここに安置されている石碑は、平成13年(2001)に 開発工事が行われた際に、元の位置から約20メートル離れたこの場所に、墓石のみを移設、整備しました。その際の発掘調査により発見された遺骨、副葬品等は、近世墓制を知る上で貴重な資料となっています。
補 足
上掲案内板説明文に次の誤りがあります
[誤] 延宝2年(1674)7月15日 → [正] 延宝2年(1674)7月10日
[誤] 平成13年(2000) → [正] 平成13年(2001)
「横須賀市文化財調査報告書 第41集」 2005年3月 横須賀市教育委員会刊によると、向井正方夫妻墓は、横須賀市池田町1丁目79番地1号に所在した当初の地点から南西に数10m離れた移築復元されたとし、現在地案内板には元位置から約20m離れた位置に墓石のみ移設したと記している。
しかし、宅地造成工事後に「湘南大津の丘」となった新住宅街の地域の大半は、開発前のブルーマップなどによれば、元は池田町ではなく、大津町2丁目、大津町3丁目および馬堀町1丁目の各一部を合わせたもので、向井将監正方夫妻墓は、大津町3丁目79-1にあったもの。また、「当初地点から南西に数10m離れた地点に移築復元」の数10mは約50~60mと解すると、現在の池田町1-27-9辺りにあったこととなり、ほぼ旧地図での旧墓所となる。
本サイト管理人は、当該地の開発工事が始まった頃、郷土史家の案内で大津町3丁目にある信楽寺(しんぎょうじ)山門手前40mほどを右折し、大津幼稚園前を通った後、山道を辿ったとき、右手に向井将監正方夫妻墓を見ているが、現在は、開発により当該山道はなくなり、地形が大きく変わってしまった。移転後の向井将監正方夫妻墓碑は、引き続き貞昌寺の管理下にあり、貞昌寺墓域に新たに正方夫妻墓が正方母墓と並んで建立されている。なお、移転後位置の住居表示と地番は「所在地」欄に記したとおり。
参考Webサイトほか
将監正方夫妻墓碑 横須賀市サイト
「横須賀市文化財調査報告書 第41集」 2005年3月 横須賀市教育委員会刊
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」 新潮社刊 P.231-234
向井将監夫妻墓元位置
撮影:2016-01-06
坂本龍馬の妻・お龍さんの墓がある信楽寺(しんぎょうじ)山門手前40mほどを右折し、大津幼稚園前を通った後、向井将監正方夫妻墓元位置への山道は、現「ぎんなん幼稚園運動場」北側(海側)からなだらかに登り、右写真辺りに達していたものと思われるが、現在は「ぎんなん幼稚園運動場」北側の高い擁壁に阻まれ山道は消失、擁壁下は通行禁止となっている。
向井将監正方夫妻墓の元位置は、右写真の右後方にあったものと推測される。
右写真辺りは、古くは大津町3丁目、、今は池田町1丁目である。
向井将監正方墓碑
撮影:2016-01-06
[塔身左側面]
(右から)
延宝二甲寅歳
七月十日
[塔身正面]
(右から)
俗名者向井氏将監源正方
大通院義山浄節居士
相州三浦之郡数箇所領主
[塔身右側面]
向井氏左近衛将監源忠勝五男
向井将監正方室(妻)墓碑
撮影:2016-01-06
[塔身左側面]
(右から)
寛文拾庚戌歳
九月十四日逝去
[塔身正面]
(右から)
服部氏従五位下玄蕃頭源冬次息女
霊徳院心鑑自照大姉
向井氏将監源正方内室同式部少輔正盛母
[塔身右側面]
如意輪観音像(陽刻)