新設:2020-01-01
更新:2022-11-13
撮影:2019-09-23ほか
名 称
海南神社
所在地
神奈川県三浦市三崎4-12-11
創 建
貞観8年(866) 花暮海岸に祠を建立
移 転
天元5年(982) 現在地に社殿造営
祭 神
主祭神:藤原資盈(すけみつ)公 盈渡姫 地主大神
相 殿:天照大御神 豊受気比売大神 速須左之男大神
菅原道真公 天之鳥船命 筌龍弁財天
案内板「海南神社」
三浦一族歴史めぐり⑳
海南神社
当社の祭神、藤原資盈(すけみつ)公は、藤原鎌足(かまたり)の後裔(こうえい)、九州太宰少貳廣嗣(だざいしょうにんひろつぐ)の孫に当たりますが、56代清和天皇の皇位継承の争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかったため、善男と不和になり、故あって九州博多を出航、貞観(じょうかん)6年(864)11月1日、当地に着岸されました。その後、資盈公は土地の者に推戴され、付近の海賊を平定したり、里人を教化して文化の基いを築きました。よって、里人の尊崇の念篤く、治績(ちせき)わずか2年ではあったが、公の没するや、そのなきがらを海に沈め、祠を花暮に建立してこれを祀りました。後、天元5年(982)に現地に社殿を造営し、三浦一郡の総鎮守として崇められ 明治6年6月、郷社に指定されました。
記
三浦大介義明が源頼朝挙兵のとき、源平の争覇を当社に占った際、白と赤の狐が闘って白い狐が勝ったので、源氏方に荷担したと伝えられます。境内には頼朝公手植と伝えられる大銀杏(樹齢約800年)があります。また御手洗池(みたらいけ)に架かる神橋の擬宝珠(ぎぼし)は、三崎御船奉行向井左近将監忠勝が寛永17年(1640)に奉納されたものであります。
また毎年正月15日に当社に奉納する歌舞「ちゃっきらこ」は、資盈公の妃、盈渡姫(みつわたりひめ)が土地の娘に教えたとの口碑があり、また歌舞島に遊んだ源頼朝公の旅の慰めにと、里女の歌に合わせて、童女達が即興的に小竹を叩いて踊ったとも伝えられており、昭和40年5月、神奈川県の無形文化財に指定されました。
平成6年1月
三浦市
補足
歌舞「ちゃっきらこ」は 平成21年(2009)9月30日に ユネスコ無形文化遺産「代表一覧表」に記載登録決定された(第1回提案)
案内板「本宮神社」
花暮地区の祠(三浦市三崎3-5)は、海南神社の「本宮」として祀られており、その案内板に 次のとおり記されている。
本宮神社
御祭神藤原資盈公は藤原鎌足の後裔で、56代清和天皇の皇位継承の争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかった為、善男と不和になり、故あって九州博多を出航し、貞観6年(864)11月1日当地に着岸されました。
その後、付近の海賊を平定したり、里人を教化して文化の基いを築きました。よって、里人の尊崇の念篤く、公の没するや、そのなきがらを海に沈め、祠を建立し祀ったのが この神社です。
毎年正月15日に奉納される歌舞「ちゃっきらこ」は、資盈公の妃 盈渡姫が土地の娘達に教えたとの口碑があり、昭和40年5月 県の無形文化財、同51年5月 国の重要無形民俗文化財に指定されました。
三崎まちなみ事業協議会
補足
本宮神社の「本宮」のヨミが気になったので 2020-02-05 バス停「三崎港」の近くにある 食事処「重美屋」の主人に尋ねたら「自分は本宮(ホングウ)さまの近くで生まれ育って80年になるが ホングウさま とよんでいる」と回答された
案内板「筌龍弁財天」
三浦七福神『筌龍弁財天』
三浦総鎮守 海南神社
治承4年(1180)源頼朝の挙兵に際し三浦大介義明(おおすけよしあき)、義澄(よしずみ)父子は当社に参詣し「神事狐合」(白と赤の狐が闘い白狐が勝った)で源平の争覇を占い、神意により源氏の再興を信じ頼朝側に荷担し、和田義盛と供に衣笠城に立籠り、畠山重忠(しげただ)ら平氏の軍勢と戦いましたが落城、義盛の一党は久里浜から海路房州に逃れんとしました。その時、折悪しく暴風に襲われて海上を漂流、まさに兵糧尽きなんとした時、龍神に祈ったところ筌(せん)(竹で編んだ籠で水中につけておきいったん入った魚は出られなくしてある漁具)という漁具が流れ来たのでこれを用いて魚を採って飢えをしのいだとの事があり、後に、建久3年(1192)鎌倉幕府が開府し、義盛は別当職に就任しましたが或る春の一夜、筌が昇天して龍と化した夢を見て一念発起し、陣地であるこの地に筌を弁財天として祀ったのがこの筌龍弁財天の縁起とされています。
弁財天には、二臂(にひ)弁財天と八臂(はっぴ)弁財天とがありますが、この弁財天は八臂で八本の手を持ち、左手に弓、刀、斧、羂索(けんさく)を、右手に箭(せん)、三鈷戟(さんこげき)、独鈷杵(とっこしょ)、輪を持ち、また琵琶を引き、大漁満足、福徳財宝、容色端正、弁智増上、芸能上達などの御神徳を叶える弁財天として変わった形の女神です。
平成三年十二月
三浦市
補足「神橋と擬宝珠」
鈴木かほる著「史料が語る向井水軍とその周辺」P186に 神橋と擬宝珠について 次のとおり解説されている。
向井忠勝の遺物として、三浦市三崎海南神社に御手洗池(みたらしいけ)と神橋(しんきょう)がある。これは、寛永17年9月「身宮安泰、寿命遠大」を祈念して奉納したもので、同神社には、社宝として青銅製の擬宝珠(ぎぼし)一対が現存する(市指定)。
その刻銘に「相州三浦郡三崎郷 海南宮神前橋 向井左近将監忠勝 身宮安泰、寿命遠大、祈念之故造焉 寛永十七庚辰九月吉日 江戸御大工 椎名兵庫」とみえる。椎名兵庫吉綱は江戸の鋳物工芸師であり、彼の代表的作品は、将軍家が日光東照宮へ寄進した宝塔・唐門(からもん)の恙虫(つつがむし)・竜などがある。向井忠勝は、将軍家と同様、江戸一流の工芸師を使役に駆り出していたことが判明する。
参考文献
鈴木かほる著「史料が語る向井水軍とその周辺」
海南神社の紋
写真のとおり「上がり藤」が海南神社の紋、向井将監の家紋は黒田日出男著『江戸名所図屏風を読む』P151-152では「上がり藤丸」という