新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
由来
撮影:2018-04-14
名 称
城山烈士供養塔・城山烈士地蔵尊
所在地
静岡県静岡市駿河区用宗4-1-6 (用宗公民館前)
案内板1
由来記
この供養塔の向背地の城山にあった持舟城は 永禄元亀天正年間(1568~1582年) 戦国争乱の最中に生れ 今川 武田 徳川など 戦国大名の軍兵が互に攻防戦を繰り広げ
数百の将兵が城と運命を共にしました。
ときの城将向井伊賀守正重ほか壮烈な散華を遂げた将士の霊よ安かれと祀ったのです
案内板2
持舟城趾由来略誌
今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に存り、周辺警備の出城として、関口刑部親長に持舟城を守らせていた。この関口の娘瀨名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年3月結婚。この政略結婚が後年家康の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知る由もなかった。永禄3年5月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。
川中島で戈を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄11年末駿河に進攻して持舟城を攻略、城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正7年9月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が、今川の血をひく正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃し果てた。
我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め、武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫叔父伊兵政綱長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り、今も古色蒼然とした墓塔が同寺にあります。天正8年2月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正10年2月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を抜き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却、あっけない幕切れとなった。家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終わった。
向井正重の次男正綱は、たまたま城外に在って生き残り、本多作左エ門の手の者となり徳川家に仕えて船手頭となり、その4代目の子孫正興が長崎奉行勤番の折、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置されました。向井家は以後代々重臣として繁栄し、其の後裔は東京都新宿区に現住しておられます。
参考Webサイト
用宗紹介 用宗町内会サイト