新設:2018-12-19
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2016-01-20
名 称
臨済宗妙心寺派 長光山陽岳寺
所在地
東京都江東区深川2-16-17
開 創
寛永14年(1637)
開山(勧請)
江巖祖吸(日暮里 南泉寺)
開山(創建)
文室祖郁(三浦三崎 見桃寺)
開 基
向井将監忠勝(初代向井将監)
本 尊
十一面観世音菩薩(脇侍:地蔵菩薩・毘沙門天)
関東大震災後に京都花園(妙心寺)実相院の本尊を移した、室町時代末期の作とされる
補 足
陽岳寺は、地下鉄門前仲町駅(東西線・大江戸線)に近い、深川1丁目交差点北東角にある
大正時代の深川大火と関東大震災で、本堂、庫裡、寺宝の全てが焼失したという
参考Webサイトほか
陽岳寺 サイト
見桃寺と向井一族石塔群 (三浦市白石町) 本サイト
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」 新潮社刊
向井忠勝ら墓
撮影:2016-01-20
案内板 (東京都教育委員会案内板)
都旧跡 向井忠勝墓
所在 江東区深川2丁目1番地 陽岳寺内
指定 大正14年1月
向井忠勝は徳川幕府の御舟方(海軍)の首脳として幕府創設にあたって功労が多かった。忠勝は左近衛将監を称し、徳川氏に仕え海戦に従い、天正8年(1590)3月甲斐の稗将鵜殿兵部の軍船を三島浜に奪ったのをはじめ
慶長の年の大坂の役には九鬼守隆と舟師をひきいて伝法海口において大いに戦い 功によって相模、上総に領地をうけた。寛永18年(1641)7月死去したが、子孫は代々幕府の船手として仕えた。忠勝の墓はその開基である陽岳寺にあって、法名を「陽岳寺殿天海玄祐居士」という。
昭和43年3月1日 建設
東京都教育委員会
補 足
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」 新潮社刊によると 次のとおり
- 向井忠勝は、寛永18年10月14日 江戸邸で病死し 天台宗上野寛永寺支院本覚院に葬られた
- 『向井辰郎家過去帳』(向井辰郎氏蔵)によると、上野本覚院に葬られた者は、向井忠勝をはじめ 正業(歓喜徹詔)・正業室(圓室妙粧)・政香(圓真泰休)・政香室(香林妙貞)・正員女(圓厳常明)・正員女(真月霊照)の7名
これらの墓碑は、明治17年2月に向井正養によって 陽岳寺に改葬され 合葬墓となった
- 『向井辰郎家過去帳』よると、次の者が陽岳寺に葬られた
向井政盛(賢岩竹翁)・政盛室(天室良真)・正員(無関正入)・正員室(霊瑞智光)・正員后室(芙月自春)・政使(儀海了水)・政使室(寂圓妙照)・正直(保山道祐)・正直室(清繰妙蓮)・正通(鶴翁露清)・正通室(月窓妙清)・正養(透岩宗徹)・正養室(久室妙永)・正義(真雄崇山)・正興室(忍誉智専)
伏見義民墓
撮影:2016-01-20
案内板 (東京都教育委員会案内板)
都旧跡 伏見義民墓
所在 江東区深川2丁目1番地 陽岳寺内
指定 大正14年1月
全国にわたる天明の大飢饉(1783~87)の頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ねた。このため、伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。
文珠久助、丸屋久兵衛および麹屋伝兵衛らは幕府に直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、ようやく逃れた久助と久兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両人は天明8年(1788)獄死した。
3名の遺体はそれぞれ陽岳寺に引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら3名が江戸にあって直訴をうかがっている間、当寺に庇護され、多大の援助を受けたからである。
昭和43年3月1日 建設
東京都教育委員会
補 足
東京都教育委員会の案内板に記された陽岳寺の所在地は、住居表示が実施される前のもののようです。
「伏見義民墓」に並んで、同じく「都旧跡」として「英信勝墓」と「観嵩月墓」が建っています。