新設:2018-11-09
更新:2022-11-13
見桃寺の縁起・沿革
撮影:2016-01-13
名 称
臨済宗妙心寺派 紫陽山見桃寺
所在地
神奈川県三浦市白石町19-2
開 創
元和2年(1616)
開 山
白室玄虎和尚 (興津清見寺)
開 基
向井兵庫頭正綱
本 尊
阿弥陀如来
見桃寺本来の本尊
聖観世音菩薩
現三崎3丁目の花暮銀座通り後背にあったという観音山の元能救寺の本尊であったが、観音山が崩された昭和7年に見桃寺に移されたもので、三浦観音霊場第2番
薬師如来
城ヶ島の薬師堂に祀られていたものが、堂焼失により海南町の神宮寺に移り、さらに能救寺に移った後、聖観世音菩薩と共に見桃寺に移ったといわれる三浦市指定文化財
三浦七福神
桃林布袋尊
案内板 (三浦市案内板)
桃の御所 (三浦一族歴史めぐり)
建久の昔 (1190年代)、時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三浦の地に3つの御所を設けました。桜、桃、椿の御所がそれで、ここ見桃寺は「桃の御所」のあった所で、鎌倉将軍がしばしば来遊したと言われています。
また、この寺の墓地には江戸初期、お船奉行として東京湾の守備にあたった向井将監一族の墓碑があります。
三浦七福神 「桃林布袋尊」
紫陽山見桃寺の開基は、慶長18年(1613)三崎船奉行の向井兵庫頭政綱が、駿河の国、興津の清見寺の僧,白室玄虎和尚を迎えて開山としたと伝えられています。
桃林布袋尊は、当寺7代の住職桃林和尚の信仰したもので、大きな袋を背負った肥満鼓腹の温顔は、古くから近郷近在の人々に親しまれ、かつ敬われてきました。そして、不老長寿、無病息災の守護神とされています。
三浦市
<注>
案内板では、白秋の項が最初にありますが、後段の白秋歌碑「寂しさに」の項に移した
参考文献
辻井善彌著「三浦半島の観音みち」 1981年9月 有ホウ書店新社刊
柴田秀二著「三浦観音札所巡り」 1997年4月 西田書店刊
片野福次著「三浦観音札所巡り」 1973年 片野福次刊
向井将監一族石塔群
撮影:2016-01-13
三浦市指定重要文化財
名 称
向井将監一族の石塔群
種 別
有形文化財(歴史資料)
所在地
神奈川県三浦市白石町3822
(見桃寺墓地内)
基 数
供養塔碑6基(宝塔型5基、櫛型1基)
宝篋印塔2基
合計8基
管理者
見桃寺
補 足
見桃寺墓地は、見桃寺入口に向かって右方向の 少し離れた所にある。
宝篋印塔の2基(#5と#7)は、忠宗(直宗)の室および子・直則(右衛門太郎)の墓塔(供養塔)の可能性が高いとされている。
#4向井忠勝(初代将監)の法名は、陽岳寺殿天海玄祐居士の外に、真珠院殿月峰宗心居士がある。
#2の墓塔は、7代将監政香による建立で、正面には、瑞龍院殿雲䑓道祥居士と天珠院殿繁室寿昌大姉の法名が刻まれているが、誰のものかは不詳とのこと。
参考Webサイトほか
向井将監一族の石塔群 文化遺産オンライン
清見寺の向井氏墓塔 本サイト
2013年4月1日付 三浦市プレス発表資料「向井将監一族の石塔群」
「横須賀市文化財調査報告書 第41集」 2005年3月 横須賀市教育委員会刊 P.128
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」 新潮社刊 P.186-189
白秋歌碑「寂しさに」
撮影:2016-01-13
案内板 (三浦市案内板)
見桃寺 (白秋文学コース)
寂しさに秋成が書読みさして 庭に出てたり白菊の花
見桃寺冬さりくればあかあかと 日にけに寂し夕焼けにつつ
白秋は大正2年10月、向ヶ崎異人館 からここ二町谷見桃寺の一室を借り、妻と2人だけのわび住まいを始めました。
この「秋成が書読みさして」の歌は、晩秋のある昼下がり、白秋は上田秋成の雨月物語「菊花の約」のくだりを読みふけっていたということで、このことは、白秋碑の第1号として昭和16年11月2日、この歌碑の除幕式に出席した白秋が初めて明らかにしました。そして、翌17年の同じ日に白秋はこの世を去ったのです。
三浦市
<注>
案内板では、この後に、桃の御所(三浦一族歴史めぐり)と三浦七福神(桃林布袋尊)がありますが、「見桃寺の縁起・沿革」の項に記した