新設:2018-07-01
更新:2022-11-13
本丸跡
標柱「持舟城趾」
案内図「持舟城趾」 (案内板より)
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持舟城本丸跡(西側から)
撮影:2018-04-14
案内板 (静岡市・用宗町内会 案内板)
持舟城跡
持舟城は、昔から村民たちに”城山さん”と呼ばれています。今でも「用宗城山町」の町名に使われ、昭和59年(1984)に開校した「静岡市立城山中学校」の校名は、この"城山さん"から命名されました。
持舟城築城年代は不明ですが、戦国時代の今川氏時代にはすでに築かれていたと考えられます。江戸時代の古絵図によると、この地は、駿河湾に面して東・北に深く入江が形づくられた天然の良港でした。
現在の静岡市駿河区用宗の地名は、湊(港)を意味する「持舟」が転化したものとも言われ、今も昔も漁業と関係を持っていました。今川氏は、ここを水軍の拠点とすると共に西方、日本坂から駿府に進入する敵対勢力を防ぐ城砦としても利用しました。
城跡は、この頂上広場(高さ76m)が本丸(本曲輪)、南西側のくぼ地に大堀切、井戸跡(曲輪)があり、その南側に二の丸(二の曲輪)、本丸の北側には腰曲輪がありました。北側の城の下は沼地と深田が広がっていました。南側は海に近く、船溜りと蔵屋敷があり、湊(港)と平山城の条件が整っていました。永い年月を経た今も、遺構はそのままの形で残っています。
築城から廃城までの間に、今川・武田・徳川氏によって3度の攻防戦が行われ、数百もの将兵が討死にする記録が残ることは静岡周辺の他の城砦に比べても例がなく、この城の戦略的価値が如何に高かったを物語っています。今川氏の城主「一宮出羽守随波斎」は麓の青木の森に、武田氏の城主「向井伊賀守正重」は 興津清見寺に手厚く祀られています。
最後の城主、武田氏の「朝比奈駿河守」は徳川軍に城を明け渡し、多くの将兵は城下に落ちのびて生涯を全うしました。やがて持舟城は徳川氏のもとで廃城になりました。
後に向井氏の子孫が城跡に観音像を建てて「正重」の霊を祀っています。観音像は阿耨(あのく)観音(マリア観音)と呼ばれ、今は用宗駅北の大雲寺に安置されています。
村民たちは7年に1度、御開帳を催し、その後「城山烈士供養塔」を城下に建立して、将兵の慰霊と現世の平和を祈っています。
静岡市・用宗町内会 平成22年3月
持舟城本丸跡(東側から) 奥は観音堂跡
城山観音像は 江戸時代には露天にさらされていた。
明治9年(1976)大髙四郎兵衛が中心となり 観音堂と奥の院を建立した。
それ以来 城山観音は秘仏とされ 7年に1度の 御開帳となった。
観音堂は平成20年に解体された。
城山観音堂(解体前)
写真提供:用宗活性化協議会
参考Webサイトほか
持舟城 サイト「史跡夜話 --史話でつづる史跡物語--」
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」新潮社刊 P.45
城趾からの眺望
撮影:2018-04-14
持舟城址から富士山を望む
写真提供:用宗活性化協議会
本丸跡東端から、晴天ならば富士山を望むことができる。
東海道新幹線、東海道本線、東名高速道路そして用宗漁港を望むことができ、用宗は交通の要衝といえる。
新幹線は、城趾の静寂を破って頻繁に通過して行く。
東海道新幹線が持舟城趾の下を走る
用宗漁港から持舟城趾を望む
写真提供:用宗活性化協議会
用宗漁港はシラスが水揚げされる漁港として話題になることが多い
かってはマグロも水揚げされていたようだが近年はなくなった模様
用宗漁港まつりが 毎年4~5月連休のうち1日間開催され 多くの人が訪れる
静岡市のWebサイトから用宗漁港の歴史を知ることができる
持舟城本丸跡(東側)から 用宗漁港