新設:2018-12-19
更新:2022-11-13
屋敷跡の場所と変遷
撮影:2018-11-23
向井将監忠勝上屋敷は、元海運橋(将監橋または海賊橋)東詰親柱(日本橋兜町3-11(三田証券)正面左手植込中)から北東方向で 現「東京証券取引所ビル(日本橋兜町2-1)」辺りにあったといわれる。
向井将監忠勝は、向井一族に中で 最初に「将監」を名のり、もっとも華やかに活動した人といわれる
海運橋親柱は コチラへ 本サイト
向井将監忠勝が寛永18年(1641)に没し、忠勝2男直宗(忠宗)が継いだものの 忠勝没3年後の寛永21年(1644)に38才で病死、その跡を継いだ直宗の子息・右衛門太郎某も正保4年(1647)に病死した
これにより 向井将監忠勝上屋敷であった邸は、翌慶安元年(1648)に牧野内匠頭信成邸となり さらに慶安3年(1650)に牧野信成の子息・牧野佐渡守親成の屋敷となった
「江戸名所図屏風」が制作された推定される1652年~1656年には、向井将監忠勝上屋敷は牧野親成邸と主が変わっていた
参考Webサイトほか
鈴木かほる著「史料が語る向井水軍とその周辺」P68-72「武州豊嶋郡江戸庄図」と船手衆
黒田日出男著「江戸名所図屏風を読む」
『江戸・東京の川=中央区の川』(一)~(五) 中央区立京橋図書館「郷土室だより」
紅葉川と楓川 "大江戸歴史散歩を楽しむ会"サイト
向井忠勝夫人の墓 本サイト
江戸図屏風と江戸名所図屏風に描かれた屋敷跡
明暦の大火(1657)以前の制作とされる「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する東側角に「元向井将監忠勝上屋敷」が描かれいる
黒田日出男著「江戸名所図屏風を読む」の「エピローグ」では 「江戸名所図屏風」(出光美術館蔵)について 仮説として 概ね次のとおり記されている
- 単純に江戸の名所を描いた作品でなく、木挽町の芸能・歓楽空間を繁華に描いた作品でもないが、「かぶき者」的な雰囲気に溢れている
- 制作時期は承応元年(1652)11月から明暦2年(1656)6月までの4年に満たない期間
- 制作依頼者は 御船手頭向井将監忠勝(1582~1641)の長男・五郎左衛門正俊であって、向井将監邸を復活させ 幕府水軍の中心に君臨する「主」になりたいという向井正俊の願望(夢)が描かれている
- 制作者は不明
詳細は、黒田日出男著「江戸名所図屏風を読む」をご覧下さい
向井正俊の略歴
慶長19年(1614)大坂冬の陣に 父・忠勝と大坂に赴き 住吉で徳川家康にまみえた
慶長20年(1615)大坂夏の陣に 徳川水軍の船奉行として祖父・向井政綱や小浜光隆らと加わった
寛永5年(1628)3代将軍家光の勘気を蒙り高野に入山
慶安元年(1648) 徳川家康33回忌特赦にて廩米(りんまい)500俵を給わる
承応元年(1652) 御船手となり水主50人を預かる
承応3年(1654) 子息水主某 初めて4代将軍家綱に拝謁
明暦2年(1656) 配下の水主50人のうち36人が直訴し 正俊改易となる
寛文11年(1671) 74才で没
蛇 足
正俊の母は長谷川長綱女とするのが通説のようだが、忠勝三男長保と四男長政が建てた逗子市海宝院の墓碑銘「当寺本願長谷川七左ヱ門少尉藤原長綱女向井左近将監忠勝後室右衛門佐直宗等数輩老女」によると、2男直宗(忠宗)~4男長政の母とは異なると思われる
参考Webサイトほか
黒田日出男著「江戸名所図屏風を読む」
鈴木かほる著「史料が語る向井水軍とその周辺」P68-72「武州豊嶋郡江戸庄図」と船手衆
『江戸・東京の川=中央区の川』(一)~(五) 中央区立京橋図書館「郷土室だより」
紅葉川と楓川 "大江戸歴史散歩を楽しむ会"サイト
向井忠勝夫人の墓 本サイト