新設:2019-01-23
更新:2022-11-13
概 要
撮影:2018-03-16
往時 霊巌寺に因んで霊巌島(霊岸島) と称された 現在の中央区新川地区は 隅田川 日本橋川 亀島川という3つの1級河川に囲まれている。隅田川は当地区の東を流れ
日本橋川は北を流れ 亀島川は西を流れている。
日本橋川は JR水道橋駅西方で神田川から分かれ 日本橋を経て 河口に架かる豊海橋(永代橋に大変近い)で隅田川に注ぐ 延長4.8kmの長さ。亀島川は
日本橋茅場町付近の日本橋川右岸から日本橋水門を経て分かれ 八丁堀付近を経由のうえ 河口にある亀島川水門を経て隅田川に注ぐ 延長1.1kmの長さで
両端に水門が設置され水害を防いでいる。
当地区は 江戸時代の初期には 向井将監の下屋敷があった北隣の箱崎島とともに江戸中島と呼ばれ 一面の沼地葭原であった。
雄誉霊巌上人が 徳川家康のことばを伝え聞いてか 江戸に教えを広めようと 現在の茅場町辺りに草庵を建てたところ 上人の徳を慕う人が増え 草庵が狭くなった。そこで
向井将監忠勝の下屋敷先の芦沼を賜り 信者の 協力を得て 寛永元年(1624)に道本山東海院霊巌寺を建立し 当地区の土地開発が始まった。
武州豊嶋郡江戸庄図(1632年版)には 霊巌寺 亀島川左岸下流に将監番所 および 後に越前堀とされる松平越前守浜屋敷などが 記されている。
明暦3年(1657)の江戸大火で当地区も焦土と化し 霊巌寺は深川白河町に移転した。しかし 現在でも 橋や交差点の名称として 霊巌(岸)の名が
「霊岸橋」 「霊岸島」として残っている。
中央区立京橋図書館 平成30年2月23日発行「郷土室だより 160号」1ページには 概ね次のことが記されている。
現在の新川1丁目1番 18番 19番に当たるところは 俗に南新堀河岸と呼ばれた一帯で 江戸初期は海であった。寛永元年(1624)に 雄誉霊巌上人によって
霊岸島が埋立・造成されたとき 箱崎地区との間に埋め残された水路(細流)が新堀川(後の日本橋川)で 八町堀地区との間に埋め残されたのが 亀島川(元の日本橋川の下流部)であった。
参考Webサイトほか
日本橋川・亀島川流域連絡会 東京都建設局サイト
越前堀跡 本Webサイト
霊巌寺 本Webサイト
武州豊嶋郡江戸(庄)図 国立国会図書館デジタルコレクション
鈴木かほる著「史料が語る向井水軍とその周辺」P68-72「武州豊嶋郡江戸庄図」と船手衆
霊巌島之碑
撮影:2018-03-16
案内板 (霊岸島保存会案内板)
霊巌島の由来
当地区は 今から370~80年前 江戸の城下町が開拓される頃は 一面の沼地葭原であった。
寛永元年(1624)に 雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して 土地開発の一歩を踏みだし 同11年(1634)には 寺地の南方に 越前福井の藩主松平忠昌が 2万7千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
邸の北 西 南 3面に 船入堀が掘られて 後に越前堀の地名の起こる原因となった。
明暦3年(1657)の江戸の大火で 霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ 跡地は公儀用地となって 市内の町町が 替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には 富島町 浜町 四日市町 塩町 大川端町 川口町 長崎町 霊岸島町 銀町 東港町 新船松町 越前堀 南新堀の13町に分れ 多額納税者も多数居住して 検潮観測所もあり 湾内海運の発着地 倉庫地帯として下町商業の中心であった。
大正の大震災により全部焦土と化し 昭和6年(1931)7月 区画整理によって ゆかり深い町名も新川1~2丁目 霊岸島1~2丁目 越前堀1~3丁目と改称され 更に昭和46年(1971)住居表示制度の実施により 新川1~2丁目となった。
江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
昭和52年3月
霊岸島保存会
補 足
「霊巌島之碑」は 「越前堀児童公園(中央区新川1-12-1)」に設置されている。
当案内板に記載された案内文は 昭和53年(1978)に記されたものでゆえ 冒頭の「当地区は 今から370~380年前の…」は 「当地区は 今から410~420年前の……」と読み替えて読むことが望ましい