新設:2019-01-23
更新:2022-11-13
越前堀跡
撮影:2018-03-16
案内板 (中央区教育委員会案内板)
越前堀跡
所在地 中央区新川1~2丁目地域
江戸時代 この辺りは越前福井藩主 松平越前守の屋敷地でした。屋敷は3方が入堀に囲まれ これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で 今でも建設工事中や遺跡の調査中に 越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12~15間(20~30m程)もあり 運河としても用いられ 荷を積んだ小舟が通っていたようです。
明治になり 越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが 堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923)の関東大震災以後 一部を残して大部分が埋め立てられ わずかに残っていた隅田川に近い部分も 戦後完全に埋め立てられました。その後 町名が改められ 「新川」となって現在に至っています。
今では 往時をしんぶ「越前堀」の名は ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
平成17年3月
中央区教育委員会
補 足
標石「越前堀児童公園」には 次の文字が刻まれてる
上段:越前堀児童公園 中央区 下段左:東京市 越前公園 右下:昭和五年 五月□□ <注>□は不明文字
案内板 (中央区土木部公園課案内板)
石の由来
この公園で使用した石は 昭和60年 東京都が日本橋川右岸改修工事をした際 雉子橋付近から発生した石垣の一部です。
徳川幕府は 慶長10年(1605) 第2期江戸城建設にあたり 江戸城およびお濠の石垣採取輸送を 中国 四国 九州の31大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され
江戸まで運ばれましたが 石の切り出し 海岸までの輸送 陸揚げ等 一連の作用は困難をきわめ たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。
また 石には 各大名 組頭 石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
中央区土木部公園課
参考Webサイトほか
(元)霊巌島 (現 中央区新川) 本Webサイト
霊巌寺 本Webサイト
日本橋川・亀島川流域連絡会 東京都建設局サイト
武州豊嶋郡江戸(庄)図 国立国会図書館デジタルコレクション
鈴木かほる著「史料が語る向井水軍とその周辺」P68-72「武州豊嶋郡江戸庄図」と船手衆