新設:2018-11-09
更新:2022-11-13
縁起・沿革
撮影:2018-10-03
名 称
浄土宗 本水山道清院覚栄寺
所在地
神奈川県横須賀市走水2-8-14
開 創
日本武尊東征の尽力者を弔った十王堂の跡地に 永正10年(1513) 念仏宣布道場として載誉屋道上人が開創したと伝えられる
開 山
載誉屋道上人
本 尊
阿弥陀如来
本 寺
鎌倉 光明寺
案内板 (大津行政センター市民協働事業・大津探検くらぶ案内板)
覚栄寺 (浄土宗)
本尊は阿弥陀三尊です。
永正10年(1513) に屋道上人が念仏を広めるために道場として開いたといわれています。
墓地には向井一族・政勝系統の墓があり、走水奉行・向井政良の長墓様といわれる逆修塔や一族の政直・正道・半十郎の宝篋印塔や五輪塔、石地蔵浮彫りの碑、石灯籠などがあります。
境内左側には生き如来といわれた木喰修行の名僧・徳本上人の花押・直筆の供養塔や関東大震災の走水の犠牲者34名の供養費があります。
お堂の右手奥には「滝の井戸」と呼ばれる湧き水があり 裏山の湧水は市の水道水源地となっていました。
大津行政センター市民協働事業・大津探検くらぶ
補 足
覚栄寺は、京急本線の馬堀海岸駅下車、観音崎行バスに乗車し、バス停「走水上町」下車 徒歩1分
参考Webサイトほか
覚栄寺 横須賀市サイト
本水山覚栄寺(浄土宗)三浦薬師如来霊場会サイト
高橋恭一著「三浦半島における向井一族の遺跡」『横須賀市立博物館研究報告書8号』(1964年)
田辺悟著「横須賀こども風土記 中巻」横須賀市民文化財団刊(1989年)
鈴木かほる著「史籍解説 大津東コース」『おおつの史跡道』大津地域文化振興懇話会刊(1996年)
鈴木かほる著「戦国期武田水軍向井氏について ―新出『清和源氏向系図』の紹介―」『神奈川地域史研究第16号』(1998年)
鈴木かほる著「戦国期向井水軍の足跡を辿って」『三浦半島の文化第8号』(1998年)
鈴木かほる著「史料が語る 向井水軍とその周辺」 新潮社刊(2014)刊
長谷川系向井家系図
長谷川系向井氏遺跡 -1
撮影:2018-10-03
向井伊兵衛政勝供養塔
正面
中央:南無阿弥陀仏 浄屋安進 霊位
右側:正保四丁亥年 (建立年)
左側:九月廿九日 (建立月日)
右下:俗名 向井伊兵ヱ
左下:施主 向井十左衛門 と読める
補足
正保4年は西暦1647年に当たる
向井政勝は天正7年9月(1579)に
用宗城(静岡県)で養父・向井正重と
共に討死にしている
政勝の次男向井五左衛門政良は、
寛永9年(1632)病死、当供養碑の
建立時に生存していない
施主(建立者)の向井十左ヱ門は、
政良の長男・向井権十郎政直が、正保
元年(1944)に没しているので政直で
はない
政勝の実父は、長谷川三郎兵衛長久で
実弟の長谷川長綱は三浦郡奉行
参考→長谷川長綱の墓
長谷川系向井氏遺跡 -2
撮影:2018-10-03
①一石五輪塔 向井正道(正通)墓
正面
中央:為天誉浄真禅定門
右側:元和五年
左側:十月廿六日
補足
正道は向井忠勝(初代将監)の弟
走水奉行を務め、元和5年(1619)病死
高野山西室院の過去帳にある
②宝篋印塔 向井政良供養塔
塔身
正面:南無阿弥陀仏
塔身下 (読みは高橋恭一著による)
正面:為有志者心誉崇珀信士仏果也
(3行書)
右側:其仏本願力閲名欲往生皆□利
彼国□致不退転 (4行書)
左側:寛永九年五月五日施主三浦走水
向井五左ヱ門 (4行書)
補足
向井政良は向井政勝の長子
高野山西室院の過去帳は[心誉崇珀]が
[真誉宗珀]で③逆修塔とも異同がある
③長墓逆修塔 向井政良墓
正面
念誉崇寿信士
干時寛永九年五月五日
補足
花崗岩製で長墓様といわれる
風化が進み、現状は文字判読不可
向井政良は向井政勝の長子
④宝篋印塔 不明
風化が進み、文字判読不可
長谷川系向井氏遺跡 -3
撮影:2018-10-03
①浮彫石地蔵 向井半十郎墓
地蔵尊像右
為真窓性空居士菩提也 施主
地蔵尊像左
萬治三天子二月十四日 敬白
地蔵尊像裏
向井忠三郎
刻印は向井忠三郎と読める
補足
半十郎は、向井政直の子
万治3年(1660)2月没
当初籏山崎(御所ヶ﨑)に建立
後に②石灯篭と共に移築といわれる
②石灯籠
柱正面
中央:為三界萬霊六道四生頓證佛果也
右側:萬治三年子 施主
左側:二月十四日 敬白
柱裏面:向井半七郎
刻字は向井半七郎と読める
補足
当初籏山崎(御所ヶ﨑)に建立
後に①地蔵尊と共に移築といわれる
③宝篋印塔 向井政直墓
塔身
正面:南無阿弥陀仏
塔身下
正面中央:性誉雄胤信士
正面右:寛永二十一年
正面左:九月十六日
右側面:向井権十郎政勝
刻字は向井権十郎政勝と読める
籏山崎(御所ヶ﨑)に当初建立か?
補足
向井政直は、向井政良の子
滝の井戸・水源貯水池
撮影:2018-10-03
「滝の井戸」は、本堂に並ぶ庫裡の右側裏手にある
「飲むための設備対応を全くしていないので、伊勢町の水場を利用して欲しい」旨の注意を促す掲示を地主が掲げている
「旧海軍の貯水池」は本堂左側裏手奥に横須賀市水道局が設置した柵内にある
その「旧海軍の貯水池」の50~60m奥に、覚栄寺裏山の貯水池といわれるレンガとコンクリート造の「市営水道発祥の貯水池」があるというが、柵から奥は立入禁止となっている
走水番所・旗山崎台場跡
撮影:2018-10-08
案内板 (大津行政センター市民協働事業・大津探検くらぶ案内板)
走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590) 徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に命じ 走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行をを務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843) 川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、6挺の大砲を配備し異国船の進入に備えました。
明治19年(1886) 旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木の下に現在も残されています。
籏山崎の名は 大和武尊が上総(千葉)に渡る時、海が荒れて進めず 臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
大津行政センター市民協働事業・大津探検くらぶ
補足
走水番所・旗山崎台場跡は、国道16号線沿いのバス停「走水小学校」とバス停「走水上町」の間にある。
フェンスに案内板「籏山崎公園」が掛かり、公園入口に「横須賀風物百選 御所ヶ崎」の標柱が立っている。